ＴＨＥ ＧＥＮＴＬＥ ＤＲＡＧＯＮ
ＳＩＤＥ ＳＴＯＲＹ ５７ 「ＺＩＧＥＵＮＥＲＷＥＩＳＥＮ」
ＳＣＥＮＥ１
「よくやったわね、リュウ」
エリザベスがほほえみながら、リュウイチのほおを軽くたたいた。
「ありがとうございます！」
滅菌グローブを、ディスポーザーに放り込む。
「夕べから連続勤務でしょう。大丈夫？」
「ええ、あと１時間であがりなので、思い切り寝ます。先生こそ無理はしないでくださいね」
「気をつけるわ」
リュウイチは３年目のレジデント。ＥＲと外科の両方で、忙しく働く毎日である。
ＳＣＥＮＥ２
「リュウ！」
廊下に出たリュウイチは、振り返ったと同時に抱きしめられていた。
「レイラ！」
「驚いた？」
「うん、とっても」
「お久しぶり」
「……３年ぶりだね」
「大きくなったわ。初めて会ったときは、私の胸くらいまでしか背がなかったのに」
レイラは少しくやしそうにリュウイチを見上げた。
「もう背は伸びてないよ。さすがに」
「シカゴへはコンサート？」
レイラはかぶりをふった。
「バイオリンはちょっと休んでるの……スランプ」
「そうなんだ……ちっとも知らなかった。毎日すごく忙しいんだ」
「今日も忙しい？」
「ううん、あと１時間であがり。待っててくれる？」
「もちろん」
ずっと廊下で抱き合ったままのふたりを、通りかかるスタッフがちらちらと横目でながめていく。
「おい、そんなところでいちゃいちゃするな」
「げっ」
「親にむかって『げっ』とはなんだ」
「あ〜、パパ。紹介します。レイラ・キリシマ。日本人のバイオリニストで、僕が医学部へ入学する直前のドリーム・コンサートで初めて出会ったんだ」
これがあのころリュウイチが夢中になっていた１０歳年上のバイオリニストかと思いながら、ロマノは笑顔で右手を差し出した。美人に愛想よくするのは、紳士のたしなみのひとつである。
「初めまして、ロバート・ロマノです。息子がいつもご迷惑をおかけして」
「こちらこそ初めまして。迷惑だなんてとんでもない」
握手をしながら、ロマノはレイラを上から下までながめた。長い黒髪、抜群のスタイル。アーモンドの形をした大きな目。黒の細身のパンツスーツに深紅のブラウス。
『まるで赤いバラだな。３０にはとても見えん。リュウはこういうのが好みなのか』
心の中に突然浮かんだエリザベスの姿を、あわてて打ち消す。
「どうだ、今夜３人で食事でも」
「ありがとう、パパ。でも、僕今日はもうすぐあがりだから。レイラを案内したいところもあるし」
「そうか」
ＳＣＥＮＥ３
カルテを物色しているリュウイチに、チェンがささやいた。
「廊下で抱き合ってた彼女と、今夜は楽しいデート？」
「いいえ、レイラは結婚してるんです。おととし」
「あら、そうなの」
ＳＣＥＮＥ４
「お待たせ、レイラ」
「まずは食事に連れてって。おなかぺこぺこ」
「了解。え〜と、和食なんかどう？」
「賛成！」
「あ、でも僕たちふたりだけで出かけちゃ悪いんじゃない？ご主人に」
「彼とは別れたの。もう半年になるわ」
「そうなんだ……ごめんね」
「いいのよ。もうとっくにふっきれてるから。生活がいつもすれ違いで……そのうち心もすれ違っちゃった」
「スランプはそのせい？」
「違うわ」
ＳＣＥＮＥ５
ディナーのあと、リュウイチはレイラをホテルに送っていった。
「いい部屋だね……うわあ！」
窓に駆け寄り、夜景に歓声を上げる。
「きれいだなあ。レイラもこっちに来……」
あとの言葉は、レイラのくちびるにふさがれた。
ＳＣＥＮＥ６
ベッドで毛布にくるまって、レイラはリュウイチの寝顔を見つめていた。時刻は朝の６時。夜勤明けのリュウイチは、まだぐっすりと眠っていた。いつも思う。近親○○ってこういう気分なのかしらと。初めて会ったときから５年の月日が流れた。少年からひとりの男へと変貌を遂げる、その貴重な時間の一部を共有することができた幸せをかみしめながらも、レイラはため息をついた。
もそもそと寝返りをうつ。そろそろまた始まったようだ。ぴりぴりとした痛みが四肢の先端から這い上がってくる。それはやがて、全身がばらばらになるかと思うほどの激痛に変わる。そうなる前に……。レイラは身を起こした。
ＳＣＥＮＥ７
手首をつかまれ、レイラは驚いて振り返った。
「起きてたの？」
それには答えず、乱暴に注射器をもぎ取る。
「中身は何？モルヒネ？それともヘロイン？」
「……ヘロイン」
「いつから」
「ひと月前」
壁に注射器を投げつけ、リュウイチはベッドに大の字に引っくり返った。突き刺さった注射器が、ぷるぷると震えている。
「ハイになりたいときだけよ。常習はしてないわ」
「みんなそう言うんだ……レイラ、どうして？」
「……」
肩をわしづかみにしてゆさぶった。
「どうして、どうして麻薬に手を出したりしたんだ！」
そしてレイラをかたく抱きしめた。
「……リュウ？」
リュウイチは泣いていた。
ＳＣＥＮＥ８
「どうして泣いてるの？」
「くやしいんだ。大切な人が麻薬中毒になるのを止められなかった」
「……リュウ……」
「バイオリンが前みたいに弾けなくなったの。あの人と別れるちょっと前から。いろいろあって疲れてたし、ストレスがたまってるせいだろうって思ってたんだけど……元の生活に戻っても、同じだった……知り合いのミュージシャンにすすめられたの。心も身体も楽になるからって……すごく幸せな気分になれたわ。あんなことは初めてだった……それが忘れられなくて……」
「そして、あっという間に中毒になった。ヘロインは依存性が強いし、中毒になるのも早い」
「何百回もやめようと思ったわ。でもだめなの。クスリが切れたときのあの痛みと苦しみ……気がついたら注射器を握っていて……バイオリンのためにクスリに手を出したのに、弾くどころじゃなくなっちゃった……馬鹿みたい」
「もしかして、死のうと思ってる？」
「え？」
「僕にさよならを言いに来たんでしょ」
「……」
「死ぬなんて、許さない。うちの病院で離脱プログラムを受けよう。必ず抜けられるから」
レイラはかぶりをふった。
「もしマスコミにかぎつけられたら、格好の餌食だわ。ヤク中のバイオリニストなんて、もう誰も相手にしてくれない。自分勝手な言い草だってことはわかってる。でも、バイオリンは私のすべてなの」
「……わかった。僕がレイラを助ける」
ＳＣＥＮＥ９
「今日から休みたい？それも１週間ですって？正気なの？リュウ」
受付でカルテ整理をしていたウィーバーは顔をあげた
「無理なお願いをしてるってことはよくわかってます。でも、どうしても休みたいんです」
「理由は？」
「……言えません」
「理由も言えないんじゃ、休暇はあげられない。さっさと勤務に戻りなさい」
再びカルテに目を通し始めた。リュウイチはうつむいてくちびるをかみしめている。
「人の……人の命がかかってるんです……これしか言えません」
ウィーバーがリュウイチの目を見つめた。視線をはずさず、リュウイチもまっすぐ見返した。
「……いいわ」
「ありがとうございますっ！」
駆け出すリュウイチの背中に、ウィーバーは叫んだ。
「その代わり、来月も再来月も休暇は無しよ！」
ＳＣＥＮＥ１０
リュウイチはリビングのテーブルに、紙袋の中身を並べた。コンパジンにクロニジン、プロプラノロル、生食……。
「どうしたの？これ」
「病院からくすねてきたんだ。でもよかった。パパがいなくて」
「シドニーって言ってた？」
「うん。学会があるんだ。向こうにパパのお兄さんが住んでるから、そっちにも寄るらしい」
「ごめんね、リュウ」
「それはもう言わない約束でしょ。これから４時間くらいしたら、禁断症状があらわれる。ピークは３６時間〜７２時間の間になると思う」
「こわいわ」
「僕がついてる」
リュウイチはレイラを抱きしめ、キスをした。
「２階のゲストルームへ行こう。ソファーより、ベッドの方が楽だから」
立ち上がろうとするリュウイチの腕を、レイラはそっとつかんだ。
「ここにいたいの」
ＳＣＥＮＥ１１
「寒い、寒いわ、リュウ。身体が凍ってしまいそう」
リュウイチはレイラを毛布でくるんでやった。やがて襲ってくる猛烈な吐き気。胃が裏返しになるかと思うほど吐いても、まだ吐き気は続く。
「もうすぐ吐き気止めがきいてくるからね」
背中をさすりながら励ます。
ものすごい力でしがみついてくるのを抱きしめた。獣のようにうなり声を上げ、レイラが肩にかみつく。自分が何をしているか、もうわかってはいないのだ。リュウイチはやさしく髪をなで、ささやき続けた。
「大丈夫だよ、レイラ。僕が君を守るから」
ＳＣＥＮＥ１２
レイラがふっと正気を取り戻した。脈拍と血圧を測り、胸に聴診器をあてる。
「リュウ……お願いがあるの」
点滴が落ちる速度を調節していたリュウイチはふりむいて、にっこり笑った。
「なあに？何か飲む？」
「ピアノ弾いて」
「リクエストは？」
「何でもいいわ。あなたのピアノが聴きたいの」
「ラジャー」
ＳＣＥＮＥ１３
「この曲……」
初めて出会ったドリーム・コンサートで、リュウイチが演奏した曲だった。バイオリンを弾けることが当たり前だったあのころ。まさかこんなことになるなんて思いもしなかった。
ピアノを聴きながら、子どものようにレイラは泣いた。バイオリンをもう一度弾きたい。リュウイチの伴奏で演奏したい。そのとき、頭の中でバイオリンが鳴り響いた。クスリによる幻聴だろうが、レイラはうれしかった。ピアノをバックに高らかに歌い上げるバイオリン。レイラはほほえんで目を閉じた。
ＳＣＥＮＥ１４
３日間苦しみぬいて、ようやく身体からクスリが抜けた。４日目はこんこんと眠り続け、５日目の朝、レイラはぽっかりと目をさました。
「おはよう、レイラ」
「おはよう」
「気分はどう？」
「まだ身体がだるいけど、気分はいいわ」
「食べられそう？」
「そういえばおなかすいてる」
「おかゆと梅干！」
「日本人の定番メニューだよね。病み上がりの」
「感激だわ。何年ぶりかしら」
「……レイラ、ゆっくり食べなきゃダメだよ」
ＳＣＥＮＥ１５
リュウイチがピアノを弾いていると、レイラがやってきた。バイオリンを抱えている。
「何を弾くの？」
「ツィゴイネルワイゼン」
「いきなり？」
「うん」
「了解」
ツィゴイネルワイゼンは、レイラが１５歳のとき、日本のコンクールで演奏して優勝した曲であった。レイラの原点ともいえる。このひと月、バイオリンを弾きたいと思い続けてきた。その思いと、そして今再び弾くことのできる喜びをすべてぶつけた。
弾き終わると、レイラは床にへたりこんだ。あわててリュウイチがかけよる。
「大丈夫？無茶だなあ。いきなりパワー全開なんだもの」
「さすがにきつかったわ。もう年かしら」
「そういうことじゃなくて」
「どうだった？」
「素晴らしかったよ。なんだかもう一段ステップを上がったみたいな感じがした。音に深みが増してて。あと、そうだね……胸にずんとひびく。音だけじゃなくて、圧倒的なドラマって言うのかな。感動したよ。とても」
「ほんとに？」
「ほんと」
レイラはリュウイチを抱きしめ、キスの雨を降らせた。
「ありがとう！リュウ！あなたのおかげよ」
「これに味をしめて、まさかまたドラッグに手を出すんじゃないだろうね」
リュウイチがいたずらっぽく笑う。
「まさか。バイオリンを弾きたくても弾けないだなんて、もう二度とごめんよ」
レイラにとって、バイオリンは命そのものなのだ。リュウイチにはよくわかった。自分も同類だから。
ＳＣＥＮＥ１６
６日目、レイラは１日中バイオリンを弾いて過ごし、リュウイチもそれに付き合った。観客が誰もいないコンサート。レイラのバイオリンにリュウイチの伴奏という、非常にぜいたくなこの組み合わせは、エージェントが知ったら気が狂うこと間違いなしである。
ディナーの後、ふたりはソファーでくつろいでいた。
「リュウって本当にお料理上手ね。尊敬しちゃう」
「毎日レイラのために作るよ」
「え？」
「ずっと側にいたいんだ……結婚してください」
「リュウ……」
「ありがとう、リュウ。あなたのことは本当に大好き。愛してるわ。５年前に出会ったときから。でもね……今度のことで私、よくわかったの。自分がバイオリンと……音楽と結婚しちゃってるって。だから、誰とも結婚しないわ。たとえあなたとでも……リュウ……とってもうれしかった。プロポーズしてくれて。これからもずっとあなたのことを愛してるわ」
「……わかった。ありがとう、レイラ。愛してるよ」
リュウイチはレイラを抱きしめ、キスをした。
ＳＣＥＮＥ１７
ロマノはリュウイチをオフィスに呼び出した。
「これは何だ」
「髪の毛……だよね」
「ゲスト用のバスルームに落ちてたぞ」
「ああ、この間掃除したから。僕の髪の毛が落ちたんでしょ」
「これはお前のじゃない。ストレートだからな。あのバイオリニストのだ」
いきなりロマノはリュウイチの首をひじで締め上げた。
「苦しい！はなして！」
「俺の留守をいいことに、あの女を家に連れ込んだんだろう」
「はい、そうです。すみません」
「それはまあいい。かたいことは言わん。問題は１週間も仕事を放り出して、女といちゃついてたことだ。今日という今日は根性をたたきなおしてやる」
ロマノはさらに締め上げた。
「お願い！はなして！ギブアップ！」
「何か言ったか？」
「ほんとのことを言うからはなして！」
ロマノが急に腕をはずしたので、リュウイチはひざから床に落ちた。そのまま座り込み、呼吸を整える。
「レイラがドラッグ中毒になってて」
「ものは何だ」
「ヘロイン……だからうちで離脱させたんだ」
「それでレイラはどうした」
「３日前、ロンドンに帰った」
「ふられたってわけだ」
「違うよ！レイラは誰とも結婚しないって……」
「へえ、お前プロポーズしたのか」
「……」
リュウイチはのろのろと立ち上がった。
「戻ってもいいですか」
「ああ……そうそう」
ロマノはリュウイチに、一枚の紙切れをわたした。
「ケリーからだ」
「請求書？コンパジンにクロニジン、プロプラノロル……これって……」
「給料から天引きするって言ってたぞ」
「……」
ＴＨＥ ＥＮＤ
お読みいただきありがとうございましたm(_
_)m
レイラはお気に入りのキャラなので、再登場してもらいました(^^)
次回はまた書けたらＵＰいたしますので、どうぞよろしくお願いいたしますm(_
_)m